論語 述而 其の三十四 《middle》

論語

毎度ぉ~!はらしま(@tyj_harashima)です 日曜のお楽しみ!論語の一節を紹介しています 今回は話の内容の説明に時間や文字数がかかりそうな一節になります なるべく簡潔にサラッと読める程度にまとめるので、お付き合いください

原文・訳

子疾病。子路錆禱。子曰、有諸。子路對曰、有之。誄曰、禱爾于上下神祇。子曰、丘之禱久矣。

子のやまい へいなり。子路 いのらんことを請う。子曰く、これ有りや。子路対えて曰く、れ有り。るいに曰く、なんじ上下しょうか神祇しんぎに禱ると。子曰く、きゅうの禱ること久し。

解説・意訳

先に話の内容を簡単に説明しておくと、先生(孔子)が生死を彷徨さまよう?重篤な病気にかかった時の弟子の子路との対話になります 子路が「祈祷したい」と申し出るのですが、先生は…といった内容の一節です とりあえず先に意訳して、そのあと色々と解説していきます

先生の病気は重篤だ。子路が祈祷させてほしいと頼んだ。先生は言った「そんな先例があるのか」。子路が答えていった「あります。誄に『爾を天地の神々に禱る』とあります」。先生は言った「丘はずっと前から祈っているよ」となります

このやりとりで孔子が祈祷に消極的な様子が伺えます 消極的な理由は「そんな先例があるのか」と祈祷の効果を信じていないのか?信じるとしても、子路の行う祈祷に効果があるのか疑問に思っているのか?そこはわかりません ただ、病床にもかかわらず子路の想いをくみ取ってはっきり断ることはせず、「丘(孔子の名前)はずっと前から祈っているよ」と答えるのです

他に、子路の持ちだした「誄に『爾を天地の神々に禱る』」という部分が引っかかったから断ったとも考えられるようです 「誄」というのが死者を称える文章の祈祷らしく、死んでもない孔子に用いるのには相応しくないという理由です

ちなみに「上下の神祇」というのが「天地の神々」と訳されるのは、「神」というのが天の神で「祇」というのが地の神だそうで、合わせて「天神地祇(天地の神々)」となるそうです

このパートの最後に「丘はずっと前から祈っているよ」の説明をしておくと、孔子は生涯を通じて「仁」を社会や生活に根付かせるために尽力し続けていました 自分の理想とする「節度や思いやりのある世界の実現」を祈願していたともいえます その意味で「丘はずっと前から祈っている」というのは重みのある言葉のように思えます

Harashimaがアレコレ述べる章

今回は少し硬い雰囲気な一節でした まぁ、病床にあってユーモアを求めるのも酷な話ですネ 今回の一節は孔子が重篤な病にかかった時の話ですが、ここは持ち直して回復したようです なぜなら、「祈祷したい」と申し出た子路は、孔子が亡くなる前年に戦死しているからだそうです

なのでいつ頃の話なのかは定かではありません ひょっとしたら作り話かもしれないし、人物が入れ替わっているのかもしれませんし、そこはどうでもいい話かもしれません 話を変えます

Harashimaは神や仏の存在を全く信じていないワケではありませんが、ある特定の宗教団体に属したりして活動するようなことはしていません なぜなら、信仰は個人的なモノであって徒党を組んで教祖を祀り上げたり、団体となって信者を増やし布教活動をするのに疑問を感じるからです

もう少し言うと「他人にオープンにするような類のモノではない」「他人の信仰にも不可侵である」という考えを持っており、誰が何を信じようと何も思わないようにしています(明らかに「おかしい」と思う事はネットで呟いてみたりしていますが、基本的に否定的なスタンスはとらないように心掛けています) なので周囲には「変わった人」と映るのかもしれません

何を信仰して何を心の拠り所とするのかは人それぞれなので尊重して過ごしていますが、他人のソレらを軽々しく否定して「これはこうだ」と一方的に押し付けてくる人の多い事…到底受け入れられないから拒否するけど「いいからやれ」と迫られるので渋々やる…そんなのの繰り返しです(多分、皆に断られ、何だかんだで貧乏くじを引かされている場合も多い)

病床でもないのにユーモアの欠片もない話になってしまった…

おかしな間違った話を鵜呑みにして妄信・狂信しているステレオタイプは枚挙にいとまがありませんが「おかしい」と気づけるかは自分次第です コチラからは祈るよりほかありません それまでは他人を思いやる気持ちや他人の気持ちを慮る心の余裕のない人には近づかない方が身のためです 自分の身は自分で守らないとネ それでは、また来週!

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