毎度ぉ~!はらしま(@tyj_harashima)です 日曜のお楽しみ!論語の一節を紹介しています 今回は孔子が病に侵され生死の境にいた時の一節です よかれと思ってした事が裏目に出てしまう…そういった話になります 詳しいことは後ほど それでは、お付き合いください

原文・訳
子疾病。子路使門人爲臣。病間。曰、久矣哉、由之行詐也、無臣而爲有臣。吾誰欺。欺天乎。且予與其死於臣之手也、無寧死於二三子之手乎。且予縱不得大葬、予死於道路乎。
子の疾 病なり。子路 門人をして臣と為らしむ。病 間えたり。曰く、久しい哉、由の詐を行うや、臣無くして臣有りと為す。吾れ誰をか欺かん。天を欺かんか。且つ予れ其の臣の手に死せん与りは、無寧二三子の手に死せんか。且つ予れ縦い大葬を得ざるも、予れ道路に死なんや。
解説・意訳
まずは漢字の説明から 「疾」が「病気」で「病」が「重態」なのか、「疾 病なり」で「病気で重態」なのかは定かではありませんが、とにかく今にも死んでしまいそうな状態のことです 子路(由)は数多く登場する孔子の弟子になります
「門人」は「(孔子一門の)門弟」のことです 「臣」は「家臣」のことで、「間えたり」は癒えるとは違い「少し良くなる(小康状態)」という意味になります 「詐」は「ごまかし・ペテン」で「無寧」は「寧ろ」のことで「二三子」は「諸君・君たち」といった意味です 「縦い」は「たとえ(万が一)」の方です 「大葬」は「立派な葬式」になります 以上を踏まえて意訳していくと
先生が病気で重態になられた 子路は門弟を家臣に仕立てようとした 病気が小康状態となった時、(先生は)言った「よくも長い間 由(子路)よ、私をごまかしていたものだな 家臣がないのに家臣がいるように装った 私は誰を欺こうとというのか 天を欺こうというのか それに、私はニセの家臣に手を取られて死ぬより、君たちに手を取られて死にたいのだ たとえ立派な葬式が行われずとも、私が路上で野たれ死にするはずもない」 となります
補足の説明をすると、この時代では偉い人(重臣)などが臨終を迎えると葬式までの世話を家臣が役割分担する習わしがあったそうです で、孔子を崇拝する子路は孔子を「重臣」として見送ろうとして門弟を家臣に見立てて世話をさせていたのがバレた、という場面になります
そんな「詐(ごまかし)」を見抜いた孔子が「誰のためにそんな事をしているのだ そんな事をされても私は嬉しく思わない 死ぬときはニセの家臣ではなく、門弟である君たちに見送られたい」と子路のしたことを諫めるのです そして「(重臣ではない私の葬儀が)たとえ立派でなくとも、(葬儀もされず)道端で死ぬはずもない」と、『私には(家臣ではなく)君たちがいる』と諭すのです
病気で体調も優れない状態であっても相手(子路)のことを思いやった発言(やり取り)です 心の狭い人なら「死ななくて残念だったな」と毒づいたり「死ねばいいと思っていたんだな」と怒りだしたりして面倒なことになる場面かもしれませんね
Harashimaがアレコレ述べる章
今回の話は子路が孔子を重臣として見送りたいと思って儀式(手順)に則ってニセの世話をしていましたが、そもそもが子路の「孔子が死んでしまう」という早とちりに原因があるように思います 大昔なので医療も発達しておらず病気になれば死ぬ確率も高かったのでしょうけど…何だか失礼な気もします(だから廃れたのかもね)
Harashimaも先回りしたつもりが空回り、早とちり…よくある事なので他人の事を言えた義理ではありません こういう失敗は多々あります 孔子のように優しく諭してくれる人というのは出会わないですよね ほとんどは上記のように怒らせてしまうか、ボロカス毒づかれるのがオチです
こういった「早とちり」のメカニズムというか、起こる仕組みというのは『前例』によるバイアス(偏見や先入観)が関係していて「以前にも同じ(似たような)事があって今回も同じ結果になるだろう」と予測して行ったが以前とは異なる結果となって早とちり、空回りするのです
これに気づいてから慎重に動き出すように心掛けたら多少…ホント少しですが回数は減ったように思います(色々考えているうちにタイミングを逃してしまいそうで結局、先走ってしまう傾向は未だに強いんですけど…) 見極める時間をガマンする修行が足りないですね(笑)
おっと、そんな話より「詐」を取り上げないとね
孔子が子路に言っていた「私は誰を欺こうとというのか 天を欺こうというのか」の部分、これは体裁を繕うだけであって誰のためでもなく子路の自己満足でしかない行いです 孔子も望んでいないし、もしかしたら(「重臣でもないのに…」と)周囲に笑われるかもしれない「偽り(詐)」だよね
けど、叱らなかったのは「悪気はない」からだと思います(弱っていただけ…かもしれません) よかれと思ってした事が「よくない事」だったワケですから、頭ごなしに叱るよりも「これこれこうで、よくない事なんだよ」と教えるように諭す方が聞き入れられやすく効果的です
さらに「たとえ立派な葬儀でなくとも、道路で野たれ死ぬはずない(私には君たちがいる)」と残される門弟たちを思いやるのです こういう事を自然とできるようになるのが「君子」なのでしょうね 見習いたいところです
余計な話題に逸れないよう、今週はこの辺で終わっておきます それでは、また来週!