論語 泰伯 其の十五 《middle》

論語

毎度ぉ~!はらしま(@tyj_harashima)です 日曜のお楽しみ!論語の一節を紹介しています 今回は道徳的な意味を読み取るのが難しい一節です けど、Harashima好みの想像を掻き立てられる謎がある話のようなので、お楽しみに! それでは、お付き合いください

原文・訳

子曰、師摯之始、關雎之亂、洋洋乎盈耳哉。

子曰く、師摯ししの始め、関雎かんしょおわりは、洋洋乎ようようことして耳にてるかな

解説・意訳

今回は色々と説明のいる漢字や単語が多いので、そこで文字数を稼いでいこう…おっと、コチラの話でした もとい、丁寧に説明していきます

まず「師摯」ですが、これは「師○○」英語でいうと「ドクター○○」「シスター○○」というような役職のような意味を持っています そして「師」は「楽官(朝廷で歌舞音楽をつかさどった役所であったり、それに属する人)」のことを言います なので「師摯」は「楽官の摯さん」となります

続いて「関雎」ですが、これはずいぶん前になりますが登場しています 『詩経』の国風の冒頭「周南」の最初の詩です(参考にしている書籍による) 詳しい事はコチラを参照してもらうとして、簡潔に説明すると「領主がよき配偶者と出会い幸福な結婚をするよう祈る歌」だとされていて、孔子の生きた時代には楽器の伴奏によって広く歌われた楽曲だそうです

次の「洋洋乎」は洋洋と乎に分かれていて、洋洋が「水があふれるばかりに満ち満ちている また、水が限りなく広がっている」というような意味の単語であり、乎は、それを強調する語になります それを合わせてここでは「ゆったり広々としている」と訳します

最後の「耳に盈てる哉」の盈は、みちる・ みたす、 いっぱいになるという意味の字なので、「耳の中で(音楽が)鳴り響いて満たされる」といった感じに訳されます 以上を踏まえて意訳していくと

先生は言った「師摯が楽曲の演奏を始め、「関雎」の終章に至ると、(音楽が)ゆったり広々と耳の中に満ち溢れる」となります

この意訳は参考にしている書籍に沿ったモノで、特に違和感もなく受け入れられると思います けど、諸説あるらしく、もっとも難解なのが「師摯の始め」らしく「師摯が何をどういう風に始めたのか?」が謎なんだそうです …以下に続く

Harashimaがアレコレ述べる章

さぁ~て、ここからがウデの見せ所かな? 自分でハードルを上げているようにも思えるが、とりあえず進めていきます(勝手な想像が含まれています ご注意ください) 最初に、「この一節から道徳的な意味を読み取るのは難しい」と述べましたが無理矢理・強引に道徳的な意味を持たせる意訳を考えていこうかと思います

この「師摯の始め」というのは、師摯が音楽家としてデビューして間もない頃だったり、「関雎」の演奏に初々しさがあった頃ではないか?その「始め」ではないかと推察します その次の終わり(乱り)の「乱」は「乱れ具合」、すなわち「完成されていない演奏」と訳します 最後の「洋洋乎として、耳に盈てる哉」は、そのままです そうすると…

先生は言った「師摯がデビューした頃に演奏した初々しさの残る関雎が、耳の中で鳴り響いている」といった感じにします 「コレのどこが道徳的か?」だって? …どうしよう

例えば、現在の師摯が演奏する「関雎」よりデビュー当時の方が孔子の好みだったとか…若い頃のヒット曲を歌い続けるうちに(言葉は悪いけど)ネチっこくなってしまい「以前の方が好かった」とか、ないです? それです 時間と共に移ろいで行くのも仕方ないと思いつつ、昔を懐かしむ…とか?

逆に、初々しさ(乱れ)のあった初めの頃より現在の演奏の方が上達していて(乱れなく)聴いていて広々とゆったりしたイメージが湧く、みたいな? やり込んで上達し、成長した演奏を耳にして感動した やり続ける、積み重ねることの大切さを言っている…とか? どうでしょうねぇ…

正解なんてない(知りようがない)から、まぁ、こうやって自分なりの想像を働かせて楽しむのも面白いかもしれません 誰も「面白い」と思わないであろう、少しヤバい感じの独り遊びですネ(笑) Harashimaが「ヤバい奴」だと気づいてドン引かれる前に終わっておきます(もう遅い、すでに知っているだって?) ヤバいよ、ヤバいよぉ~…また来週!

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