毎度ぉ~!はらしま(@tyj_harashima)です 日曜のお楽しみ!論語の一節を紹介しています 今回も顔回にまつわる一節になのですが、顔回が亡くなった後の話で、孔子がいかに顔回を可愛がっていたかが伺える話になります それでは、お付き合いください
原文・訳
子謂顔淵曰、惜乎。吾見其進也。未見其止也。
子 顔淵を謂いて曰く、惜しいかな。吾れ其の進むを見る也。未だ其の止まるを見ざる也。
解説・意訳
特に難しい漢字もないので先に意訳していきます
先生は顔淵を評して言った「(早死にしたのが)残念だ 私は彼が前進するのを見た (しかし)止まっているのを見たことがない」となります
まず、顔淵というのは顔回の別の呼び名になります 「謂いて曰く」の「謂う」というのは「○○について」とか「○○を評して」というような訳になります 「進む・止まる」は歩み、すなわち「成長の度合い」のことを言っています
なので内容を要約すると、顔回のことを評して「早く亡くなってしまって残念でならない 彼の成長は目覚ましく目を見張るモノがあった 彼が脇道に逸れて成長が止まる(学問を放ったらかしにする)のを見たことがない」となります
前節(先週の話:子罕 其の二十はコチラ)でも紹介されていますが、顔回は孔子の教えに忠実な真面目で立派な優等生でした しかし、若くして亡くなります(40歳くらいとされています) 孔子は、弟子の中でも不器用で真面目過ぎる顔回を一番かわいがっていました なので、この時の孔子の落胆ぶりは後の章にも紹介されていますが、相当な落ち込みようでした
成長著しい若者がどれくらいの立派な人物となり、どのような偉業を成し遂げるのか?孔子も楽しみにしていたのだと思います それだけに「惜しい(残念でならない)」と悔やんでいるのだと思います
Harashimaがアレコレ述べる章
さて、ここからは別の角度から別の話をしていこうかと思います 今回の話では脇目も振らず学問に取り組む姿勢を褒めていました 目標や目的を早く達成する近道ですからね 寄り道をすればするだけ遅れていくのは明白な事実です しかし、根詰めて学問だけに集中するのが正解か? それについてダラダラ述べていこうと思います
Harashimaは不真面目なので学問は得意ではありませんが、全くしないか?といえばNOです やらないといけない場合はするし、やった方がいいと思えば取り組みます そこら辺は誰でも同じではないでしょうか? 問題なのは「やらなくても何となく出来る(出来たと思う)」「知らないけど何とかなった」というような体験だと思います
「よく分からないけど乗り越えられた」「たまたま上手くいった」そういう人いるよね(そう言うだけで陰で努力しているのかもしれないけど)ホント羨ましい どこが違うのだろう… そう考えると、そういう人は何処か余裕(心のゆとり)がある人のように思います
若い頃に苦労(根詰めて勉強)したからこその余裕なのかもしれないし、「何とかなるさ」という楽観的な考え方が功を奏しているのか?それは分かりませんが、やっぱり何事も視野が狭くなると上手くいかないように思います
遊んでばかりでは上手くならないし、必死になってやっても上手くならない場合もあります ほどよいバランスが大事な気がします 根詰めて勉強するのも遊んでばかりいるのも否定はしませんが、目標や目的の早期達成にだけ注力するより、たまには脇道、寄り道をして視野を広げるのも人生には有用だと思います
最近はタイパ(タイム・パフォーマンス)というのが注目されていますが、個人的にはあまり好ましいとは思いません どちらかというと自分本位で身勝手な行いが多く目につきます 一例をあげると「ファスト映画や音楽のサビしか聴かない」という話 これはタイパ重視の話でよく耳にしますが、作り手へのリスペクトがないですよね …自分の都合でしかない
「映画や音楽を観る・聴く」という目的を早期に達成するためなのだろうけど…それだけです 細かい描写に感情を揺さぶられる、メロディや歌詞をの内容を楽しむ、そういった脇道や寄り道の部分となる心の余裕がないのが残念に思います
顔回も「止まっているのを見たことがない(脇道・寄り道をしない)」と言われていますから、タイパ重視な傾向があったかもしれません もしそうなら、優秀なのかもしれないけど視野の狭い人物になっていたかもしれませんね(孔子とは見解が異なりますが…)
取り留めなくダラダラと述べてしまった…そろそろ終わります また来週!