論語 八佾 其の三 《middle》

論語

毎度ぉ~!はらしま(@tyj_harashima)です 日曜のお楽しみ!論語の一節を紹介しています 今回は、先週紹介した一節の続き?怒りの収まらない孔子が追い打ちをかけているようにも思えます 続けて読むと面白いのですが、この節だけでも楽しめるよう工夫してみますので、お付き合いください

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原文・訳

子曰、人而不仁、如禮何。人而不仁、如樂何。

子曰く、人にして仁ならずんば、礼を如何。人にして仁ならずんば、楽を如何。

解説・意訳

まずは難読漢字ですが、おなじみの漢字が多いので端折ります 「如何(いかん)」とは、色々な意味や使い方があるのですが「これってどう?」とか「それでいいの?」といった批判めいた疑問形が一般的なように思います(その限りではないです)

「禮」は「礼」で礼儀や礼節といった人間関係を円滑にするための型や方式です 最近は廃れていく一方に感じますが、敬語であったり長幼の序といったモノが礼になります

「樂」は「楽」で音楽の事を言ってます 2500年前の娯楽の一つが音楽であったようで孔子は音楽を好んでいたようです

以上を踏まえて意訳すると

先生は言った「人として誠実な思いやりや愛情を持たないならば、礼を学んでも何にもならないだろう 人として誠実な思いやりや愛情を持たないならば、音楽を学んでも何にもならないだろう」となります

Harashimaがアレコレ述べる章

今回の一節は先週の一節とセットで読むから面白いと思うので、先週のリンクも貼っておきます(コチラ) 先週の一節で三桓(さんかん)にご立腹だった孔子は、三桓に対して「仁」のない人が礼や音楽を学んでも大切なモノが欠けているのだから「何ともならないだろう」と怒ってます

心のこもっていない偽善や謝罪は相手にも分かるし、相手も気分を害するよネ 三桓達の振る舞いは厚顔無恥であり、仁とは程遠い行為であったから孔子は怒っているのです そんな人達の「礼」と「楽」は何の価値もないという一節です

人としての基礎基本が出来ていないのに、上っ面を真似た小手先だけの手法・作法は伝わらないし、ボロが出て返って失礼・無礼となります(道教は儒教の「礼」を否定しています 礼が上下関係をつくり人間関係を難しくしている という考えです)

偏見や差別とは違いますが、学んでる人と学んでいない人には「レベルの差」というのはあると思います 学んでない人ほど「平等」にこだわるのではないでしょうか? 自ら努力しないけど、努力してる人と対等であるを求めているように思います(極端だったか?)

失敗や間違いを繰り返して糧とし成長していくのですが、最近は一発退場が目立ちます セカンドチャンスはありません 世知辛い世の中ですから致命傷を負わないよう無難になっていくのだと思います しかし、これでは成長しません

Harashimaに何かできるワケではないけど、手に負えるリスクは積極的にとっていくスタイルで何か少しでも変えていけたら…なぁ~んて思ってます

予定より長くなったから、そろそろ終わりにします また来週!

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