論語 八佾 其の二 《middle》

論語

毎度ぉ~!はらしま(@tyj_harashima)です 日曜のお楽しみ!論語の一節を紹介をします 今回は前節に続き孔子が立腹する話です 最近は「怒る」ということが「悪」のように扱われている場面が多いように感じますが、コントロールして硬軟を使い分ければ「善」にもなると思います 上手く説明できるか不安ですが、お付き合いください

原文・訳

三家者以雍徹。子曰、相維辟公、天子穆穆。奚取於三家之堂。

三家者 雍を以て徹す。子曰く、相くるは維れ辟公、天子穆穆と。奚ぞ三家の堂に取らん。

解説・意訳

まずは難読漢字から 「雍(よう)」とは、周王朝の天子の祭祀の歌の事です 「相(たす)くる」とは、手伝うといった意味になります 「辟公」とは、諸侯(殿様、ココでは天子に仕える臣下)の事です 「穆穆(ぼくぼく)」は、うるわしいを指す言葉です 「奚(なん)ぞ」は、「何ぞ」と同じです

三家とは、孔子の故郷「魯」の三大貴族:三桓(さんかん)の子孫の季孫・孟孫・叔孫の事です(詳しくは知らないのでサラッと流します) この三者に立腹しているのです 分かりやすく意訳すると

季孫・孟孫・叔孫の三家が自宅での祭祀の時に雍を演奏した 先生は言った『「祭祀の際に手伝うのは諸侯、天子はゴキゲンうるわしい」とあるのに、どうしてそれを三家の堂で演奏するのか』 となります

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Harashimaがアレコレ述べる章

もう少し砕けた意訳をすると、「天子(殿様)でもない者たち(諸侯)が、祭りで殿様が使う歌を演奏していた その祭りを手伝うのが諸侯で、諸侯が手伝って祭りを盛り上げるから殿様のゴキゲンがうるわしくなるのに、なぜ諸侯の家で演奏するのか」となります

殿様でもない者が殿様気取りで「やっちゃってる」事に立腹しているワケです 今より身分や階級へのこだわりというか、制度が厳しい時代であった事を考えれば「殿様を馬鹿にしている」ともとれる出来事なのかもしれません

時代が変わり、常識も変わり続けていますから今では「そんな怒らんでも…」となる案件かもしれませんが、やはり傲慢に見える事をしていれば怒りも湧いてくるかと思います(道教では、気にならない・気にしないスタンスになります 今っぽいのかな?)

個人的には謙虚に慎ましい方を好むので、怒りはしないけど積極的に仲良くしたいタイプではないですネ 「勘違いしてるんじゃない?」と思ってしまいます(それを口に出すと面倒な事になるから言わないようにしてるけど…)

多角的に色々な話をしたいのですが、散らかってしまうのでアンガーマネジメントの話に絞って話します

自分の持ってる「常識」と相手の持ってる「常識」のズレが怒りに繋がります いわゆる「フツー」というやつです 自分のフツーと他人のフツーがイコールではないのに「自分のフツーは世間一般の常識」と思い、他人を「常識のない人」として怒りが湧くのです

人それぞれ、出身や育った環境など違うので常識も違うのです 「自分の常識が正しい」という思いが強い人ほど怒りやすく、他人に自分の常識を押し付けようとするのです 

Harashimaもそうでしたが、アンガーマネジメントを知ってから少し怒りをコントロールできるようになりました 他人の言動や常識が気になって怒れちゃう人は読んでみてください……違う本の紹介になってしまうので、ここまでにします(笑)

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