論語 八佾 其の十七 《middle》

論語

毎度ぉ~!はらしま(@tyj_harashima)です 日曜のお楽しみ!論語の一節を紹介しています 今回は「視点の違い」についての話です どちらの言い分も間違ってはいないので判断は読み手に委ねられるかと思います それでは、お付き合いください

原文・訳

子貢欲去告朔之餼羊。子曰、賜也、爾愛其羊。我愛其禮。

子貢告朔餼羊らんとす。子曰く、や、す。す。

解説・意訳

先ずは難読漢字や単語の説明をします 「子貢(しこう)」は孔子の弟子で、これまで何度も登場している若き秀才です 「告朔(こくさく)」とは陰暦の毎月の一日の事を朔といい、祖先に朔日である事を伝える儀式の事です 「餼羊(きよう)」とは「いけにえの羊」の事で、「告朔餼羊」とは「先祖に供える羊」の事を指しています 「賜(し)」は子貢の名前です 「爾(なんじ)」は「あなた、お前、汝」の事です

以上を踏まえて意訳すると
子貢が告朔の儀式で羊を生贄にするのを廃止しようとした 先生は言った「賜よ、お前は羊を惜しむが、私は告朔の儀礼が無くなる事を惜しむ」 となります(「す」は「惜しむ」と訳すようです)

子貢は、告朔の儀式自体が形骸化していているのに羊を生贄にするのは…と告朔の儀式の廃止を考えていたようですが、孔子は先祖から続く告朔の儀式が無くなる事を惜しんでいます

Harashimaがアレコレ述べる章

今回の一節は「時代に合わなくなった古いモノは捨ててしまおう」という子貢と「昔のモノを大切にしよう」という孔子の話です どちらが正しいかは一概には言えませんが、この場合であればHarashimaなら「告朔の儀礼は残すが、生贄の羊は止めて別のモノを供える」という方法を提案します

「古いから、面倒だから」で何でもかんでも捨ててしまうのは、後から必要になった場合に大変な事になるので捨て方に注意します 「断捨離」が流行ってますが、これには段階や段取りがあってキチンと理解・納得して捨てているので後悔もない…のかなぁと思います(した事ないので想像です)

孔子の側に立ってみると、「先人の智慧の詰まったモノを簡単に捨ててはいけない」という考えだと思います そこには一見すると合理的でなく手間暇がかかる生産性の低い面倒なモノかもしれないが、全体を支える上で欠かせない重要な部分を担ってる可能性もあるワケです

なので、どちらが正しいというのは決められません そんな場面がおとずれた際は、慎重に検討するようにしたいですネ

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