毎度ぉ~!はらしま(@tyj_harashima)です 日曜のお楽しみ!論語の一節を紹介しています 今回は、どの辺りに道徳的な意味が含まれているのか?読み取るのが難しい一節です 意味を持たせるために少し強引、無理矢理なコジ付けをします それでは、お付き合いください

原文・訳
子畏於匡。顏淵後。子曰、吾以女爲死矣。曰、子在。回何敢死。
子、匡に畏す。顔淵後る。子曰く、吾れ女を以て死せりと為す。曰く、子在す。回 何ぞ敢えて死せん。
解説・意訳
今回の一節は昨年の3月に紹介した一節(リンクはコチラ)と同じシチュエーションでの話になるのですが、一応、漢字の説明をしておくと「匡」というのは宋というの国にあった地名です 「畏す」というのは「恐ろしい目に合う・命の危機に陥る」という意味になります 「顔淵」は孔子の愛弟子「顔回」のことです 後は意訳後に解説していきます
先生が匡で襲撃された。顔淵が遅れて追いついてきた。先生は言った「私はお前が死んでしまったものと思っていた」(顔淵は)言った「先生が生きております。回(顔回)は(先生が生きておられるのに)死ぬわけにはいきません」 となります
リンク先でも触れていますが、ヒト間違いによって孔子グループは匡という町で襲われます その時に一時的に皆バラバラになって逃げたり隠れたりしたのでしょう 誤解が解けて再び集まった時の会話なのかもしれません(物騒な時代でもあったのだと思います)
ピンチを脱した孔子の元に弟子たちが戻ってきたときに顔回を見つけて掛けた言葉は、生きていたからこその言葉(事の大きさからみて冗談ではなく、心配したが生きているのが確認できて安堵した様子)だと思います その言葉に「先生が生きてるウチは死ねませんよ」と答える顔回の健気なところがポイントになるのかと思います
Harashimaがアレコレ述べる章
上記で何気なく「健気」の一言でサラッと流しましたが、健気には「ひたむき・一生懸命」「困難な状況でもめげずに努力を続ける」「見返りを求めずに人のために尽くす」といった行動など多岐にわたる意味のある言葉です いかにも儒教的で顔回にピッタリな言葉です
昨今の風潮(ガンバらない・好きなことだけして、苦手なことはしなくていい…など)とは真逆の言葉です もちろん、当てはまらない人の方が多いかと思います しかし、このように考えて実行していている人もいるワケで…難しい世の中になってきましたね
何かを手に入れようと思えば手に入れられるよう努力や工夫をする姿を健気というワケですが、それを自分が努力するのではなく他人のチカラを利用して達成する…例えば、クラウドファンディングで自分の夢をかなえる資金を他人からの寄付で実現する…いい話のような気もしますが、それは健気と言えるか?疑問です(否定しているワケではないですヨ)
誰かの夢に共感して寄付するが、見返りとして何かを貰う…「健気に頑張ってる人を応援しよう」というより「見返り(リターン)が魅力的だ」ではないでしょうか?(偏見かもしれませんが…) どちらも利己的な考えの方が前面に出ているように感じます(否定しているワケではないですヨ)
Harashimaもクラウドファンディングを利用してリターンを得たこともありますし、何なら「ふるさと納税」なんかも主旨は同じですからね 否定はしませんが、どうも「健気」な様には思えない 世の中の大体のことはmoneyで解決できますから「moneyさえあれば…」ってことかもしれません
moneyは目的を達成するために必要なアイテムなので、「moneyを稼ぐ」ことを目的にしてしまうのは目的と手段を間違えているといえます 稼いだmoneyを使って目的を達成するのが本懐を遂げる・果たすというモノです なのに健気に稼いだmoneyを「税金」と称して奪われ、予算が削られないよう使い切るために無駄遣いされる…
…おっと、何やら脱線していきそうな予感がするので話を変えますね
どちらかというと「健気」は上位者が下位の者に対して使うことが多い言葉です 例えば、親(上)がスポーツなどを一生懸命に取り組んでいる子供(下)の姿を見ていう・金持ち(上)が、貧乏人(下)が必死に働く姿を見ていう…などのシチュエーションです
なので昨今の『みんな横並び』の考え方からするとハラスメントや差別的になるのかもしれませんね 安易に「健気だねぇ」なんて声を掛けたら「暴言を吐かれた」と言われてしまうかも? 悪気はないのに人を不快にさせてしまう言葉となって、死語となるのかもしれませんね
時代が変われば言葉も変わりますからね どうなるやら…です 今週はこの辺にしておきます
また来週!


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