毎度ぉ~!はらしま(@tyj_harashima)です 日曜のお楽しみ!論語の一節を紹介しています 今回も先週と似たような話ですが、畏まった場所での作法(礼儀)をメインにした内容になっています その作法が今でも通用するモノなのかは定かではありませんが、忘れたり・間違ったりすると失礼であったり、恥をかいたりする時代です 細心の注意をはらっていたのであろう様子がうかがえます それでは、お付き合いください
原文・訳
入公門、鞠躬如也。如不容。立不中門。行不履閾。過位、色勃如也。足躩如也。其言似不足者。攝齊升堂、鞠躬如也。屛氣似不息者。出降一等、逞顔色、怡怡如也。没階、趨進翼如也。復其位、踧踖如也。
公門に入るに、鞠躬如たり。容れられざるが如くす。立つに門に中せず。行くに閾を履まず。位を過ぐれば、色 勃如たり。足 躩如たり。其の言うこと足らざる者に似たり。斉を摂げて堂に升るに、鞠躬如たり。気を屏めて息せざる者に似たり。出でて一等を降れば、顔色を逞べて、怡怡如たり。階を没くせば、趨り進むこと翼如たり。其の位に復れば、踧踖如たり。
解説・意訳
今回は長い上に漢字も多い…それでも、漢字から説明していきます 「公門」は「宮殿の門」です 「鞠躬如」は、緊張感をもって畏まる「おそれ慎む様子」となります 「閾を履まず」は、今でも残る作法ですよね 襖や障子のレール部のことを「閾(敷居)」といい、履まずは「踏まず」と同意ですので「襖や障子のレール部は踏まない」となりますが、訳では「敷居を踏まない」にしておきます
「位」は、ここでは「君主の座席」のことを指します 「色、勃如たり 足、躩如たり(後半に出てくる翼如たり)」は割愛します 先週、紹介しているのでね コチラからご確認ください 「斉を摂げて堂を升る」の斉は「(着物の)すそ」で、摂げては「掲げる(持ち上げる)」になり、堂を升るは「正堂へ(の階段を)上がる」です 「気を屏める」とは、気功とか気合の気をしまう(収める)という意味で「息をひそめる」といった感じになります
「出でて一等を降れば」は「(正堂を)出て(階段を)一段下りれば」です 「逞べて」は「たくましい」ではなく、ここでは「やわらげる」といった意味になります 「怡怡如たり」は「ホッとして嬉し気な様子」を表すオノマトペです 最後の「踧踖如たり」も先々週紹介しているので割愛します(リンクはコチラ)以上を踏まえて意訳していくと
(孔子は)宮殿の門に入るときは、おそれ慎んだ。(躊躇するほどの緊張で)入りかねる身ぶりをした。 門の真ん中には立たず、門の敷居は踏まない。 君主の座席を通りすぎるときは(君主がいなくとも)緊張した面持ちをした。(また)足早に通りすぎた。(その時は)口が利けない者のように言葉少なげになった。 着物の裾をもって聖堂に上がる階段を上る時も、おそれ慎んだ。(それは)息をひそめ、息のできない者のようだった。(正堂を)出て階段を一段降りると(緊張が解けて)顔がほころびホッとした。階段を降りきって小走りに進む様子は堂々として立派であった。再び君主の座席の側を通るときは、おそれ慎む様子をした となります
要するに、格式高い場へ出向く際は孔子でも緊張するし、いつも以上に礼儀に厳しくする(君主がいなくても、いるように振舞う)、場に応じて態度を改める(正堂内) ONとOFFの切り替えを持つ(後半部分)ということだと思います
普段から礼を重んじているからこそ、誰も見ていないところでも(門の真ん中に立たない、敷居を踏まない、なども)礼儀を守れるのです で、さらに格式高い場(正堂)へ入るときは緊張もピークに達するワケです 出てきてすぐでなく「階段を一段下りたところ」で緊張を解くのが最後まで礼儀を重んじている点だと思います(知らんけど) そして、帰り道もダラダラせず、もう一度君主の座席の側を通るときはキチンと行きと同じ作法で通り過ぎる…常に礼儀を忘れない、そういう話です
神社仏閣へ行くと、するよね それと同じです それを常日頃より心掛けて実践しているのが孔子です そんな孔子でも宮殿や宮殿の中にある正堂へ入るのは息が詰まるくらいの緊張する場所なのでしょうね 緊張が解けた後は気が緩みそうですが最後まで気を抜かない…先週の話にも共通するところです
Harashimaがアレコレ述べる章
また前段が長くなってしまったので、ここは手短に済ませますね
Harashima的に一番押さえておきたい部分は、誰も見ていないところでも礼を欠かさないところです ファッションでも「見えない部分」にも手を抜かないのがオシャレといいます 実際は難しくて全然ですけど、格好よくスマートにみえますよね
他にも、マネジメントの父、ドラッカーの話の中にもあります 紀元前のギリシャの話ですが、彫刻家が建物の上に立派な彫刻を完成させました そして、この彫刻家が請求した額が高かったので依頼主は言いました「彫刻の背中は誰からも見えない、見えない部分は勝手に彫ったのだから安くしろ」と そう言われた彫刻家は「そんなことはない、神々が見ている」と返答した という話です
この場合はオシャレではなく、請け負った仕事の手を抜かない・完璧に仕上げてこそという「責任」の話になるんですけどね 見えないからといって手を抜くのは善くないという話です
「見えないからいいだろう」とか、見えない部分の手を抜いてその分値段を安くしようとかありますが、いいモノにしようと思えば時間も手間もかかる、その分の値段も上がる…それも理解できます しかし、そこを上手くバランスさせるのが「ウデの見せ所」だと思います
おっと、また脱線して関係ない話を…
毎回毎回、話のONとOFFの切り替えが下手くそですな 緊張感が足りないのかな? なんてナ また来週!