論語 八佾 其の二十五 《middle》

論語

毎度ぉ~!はらしま(@tyj_harashima)です 日曜のお楽しみ!論語の一節を紹介しています 今回は音楽の話です といっても、2500年前の「流行の音楽はコレだ」という話ではなく、孔子が文化を音楽に例えた?話になります それでは、お付き合いください

原文・訳

子謂韶、盡美矣、又盡善也。謂武、盡美矣、未盡善也。

う、くせり、又た善くす也。う、くせり、くさざる也。

解説・意訳

しょう」というのは「しゅん」という君主が治めた時代の音楽の事です 「盡」は「尽くす」という字になります 「」は周王朝の始祖、武王の時代の音楽を指しています

以上を踏まえて意訳すると
先生は舜の音楽を評して言った「美しさの極みだ そして善の極みだ」と 武王の音楽を評して言った「美しさの極みだが、善の極みではない」

舜という君主はぎょうから平穏に帝位を譲り受けました なので作る音楽も美しく完璧だった しかし、武王は前王朝のいんを武力で滅ぼし新しい王朝を立てた このため、作った音楽は美の極みではあったが善の極みには達していない。という事をいっています

Harashimaがアレコレ述べる章

個人的な意見として、ハッキリ率直にモノを申すのが躊躇われる時代であったと思うので、音楽に例えて人物の評価や統治していた頃の文化の比較をしているのだと推測します

舜という君主は争う事なく帝位を継ぎ、穏やかな統治をしていた(のだろう)一方、武王は殷を滅ぼし「周」という王朝を築きました 長く続いた王朝だったので一定の評価はできるが、舜と比べると完璧とはいえないという事をいってるのではないかと思います

奥歯に物が挟まったような言い方、遠回しな話は相手の知識や教養があって理解される、伝わるモノです 直接言わないと分からない事もありますがストレートな言葉は感情を刺激して無用な争いに発展しかねません それは今も昔も変わりません

不用意な言葉で命の危険があった昔の人の人に比べれば、今の舌禍は命の危険はありませんが、知識や教養も落ちているのか直接的な言葉でないと伝わらない事が多いように感じます

言うのも躊躇われるのですが、言わないと伝わらない、言うと相手の感情を刺激して争いになる 自分もしかり、ストレートな言葉で言われると感情を刺激されます 相手を慮って伝えるよう苦心していますが相手には真意が伝わっていないようです

コミュニケーションも大切ですが知識や教養を高め、読解力や相手の意図を読み取れる奥深さというか懐の深さなんかがほしいですネ 相手のある話なので難しいですが、相手に合わせた伝え方が出来るように日頃から学んでおきましょう

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