論語 八佾 其の十 《middle》

論語

毎度ぉ~!はらしま(@tyj_harashima)です 日曜のお楽しみ!論語の一節を紹介しています 今回も「禘の大祭」についての一節になりますが、今回はHarashimaの想像に元ずく推測で話を進めます 詳細は自分でお調べください それでは、お付き合いください

原文・訳

子曰。禘自既灌而往者。吾不欲觀之矣。

子曰く、して自りは、吾之るをせず。

解説・意訳

先ずは難読漢字から 「禘(てい)」は、君主が先祖を盛大に祭る大祭の名前です 「灌(かん)」は、地面に立てた藁(わら)に酒を注ぎ先祖の霊を招く、その大祭を行う時の最初の儀式の名前です 「觀(かん)」は「観」です

以上を踏まえて意訳すると
先生は言った「禘の大祭は灌より後(往)は、私は観る気がしない」 となります

どうして観る気がしないのか?説明がないので解説しようがありません
もしかしたら、灌より後は孔子(儒教的)には受け入れられない儀式があるのかもしれない
なんとでも想像できるので、各々が自分の思うように読み取ればいいと思います

Harashimaがアレコレ述べる章

個人的な意見を言えば、今までの八佾編の流れから三桓(さんかん:孔子の故郷「魯」の国の三大貴族)が君主を気取って「禘」の大祭を行ったのではないかと思います

「礼」を重んじる儒教で身の丈に合わない振る舞いは「失礼」「無礼」となります

君主でもない家臣の三桓が、君主が行う「禘」をするから参列しろと誘われ、断りたかったが(孔子より位の高い人ですから)断るのも失礼になると思い参列したと考えると先祖を招く儀式までは観ていられるが、それ以降の儀式は観るに堪えない(君主に対して「失礼」「無礼」な)観る価値のないモノだからではないか?と思います(知らんけど)

現代でも上役気取り、何なら神にでもなった気でいる勘違いしてる人、いるよネ

観るに堪えない、観る価値もない、共感しかないです
この手の人は盲信狂信してて何を言ってもムダで辟易してしまいます(Harashimaの周りにも ” 多く ” いて困ってる) 「君子危うきに近寄らず」なんてありますが注意も忠告もしない、放置プレイで気づくのを待つしかない状態です

気づいたころには手遅れで何をどうしていいのか?右往左往することになる(今ここ?)

アリとキリギリスの話にも似てるよネ 詳細は省くけど…

すっかり呆れられてしまう前に気づく事を願います 

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