儒教と道教の話 ≪middle≫

老子

毎度ぉ~!はらしま(@tyj_harashima)です 日曜のお楽しみ!論語の話をする日ですが、今回は學而編がすんだ中休みの意味も込めて、趣向を変えた(先を見据えた)話をしますので、お付き合いください

儒教の天敵? 道教について

harashimaは儒教(論語)の話を毎週みなさんにお届けしていますが、先週の話でも少し触れましたが何かに偏ると「中庸」とかけ離れてしまいます 儒教と対極にあるのが道教という思想です 道教の大家(有名な人)といえば「老子」が最初に思い浮かぶと思います

せっかくなので、論語の「學而」が一段落したので合間に老子(道教)の一節を紹介しようと思います


老子 上編 第一章 原文・訳

道可道非常道。名可名非常名。無名天地之始。有名萬物之母。故常無欲以觀其妙。常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄。衆妙之門。

道の道とすべきは常の道に非ず。名の名とすべきは常の名に非ず。無は天地の始を名づけ、有は万物の母を名づく。故に常に無は欲し以て其の妙を観、常に有は欲し以て其の徼を観る。此の両者は同出にして異名なり。同、之を玄と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり。

Harashimaがアレコレ述べる章

今回は順番を入れ替えて、道教について説明してから意訳と解説をしようと思います 「儒教と対極」とはどういう事かというと、儒教は「仁」「義」「礼」「智」「信」の五常の徳性を拡充して人間性を養いますが、道教は「すべては道の働きにゆだねて生きる、無為自然」という思想なのです

なんのこっちゃ??かもしれませんが「見えない大きなチカラ(tao:タオ)が働いているので余計な事をせず全てタオの働きに任せておけばいい」という考え方なので、礼儀や上下関係を重んじる儒教とは相容れない犬猿の仲なのです

話を戻しますと、儒教(論語)の話だけでは偏ってしまうといけないので、たまに道教(老子)を挟んでいこうかと思っているので、お付き合いください

意訳・解説

「道」とされるモノであっても、キチンと説明できてしまうのは本当の道ではない。「名」といってもコレコレと定められるモノは本当の名ではない。 名のないモノこそが天地の始まりであり、初めて名を得たモノが「万物の根源」と呼べるモノである。 したがって、常に無私無欲でいれば「道 : tao」の細やかな働きをみる事ができる。 逆に、常に欲望にかられていると万物の動きを結末をみるだけになる。 この二つ(有と無)の根本は同じで、名前が違うだけである。 どちらもとても深遠である。 このとても奥深いモノから、あらゆる繊細なモノがうまれる。

「柔道」「空手道」は説明できるし、「犬」「魚」などの名前は人間が名づけました 無私無欲であればタオのチカラを感じる事ができるけど、欲が絡むとタオのチカラが働いた結果が自分に降りかかります タオのチカラが働いているは同じだが起こった結果の名前が違う 深遠で奥深いタオのチカラが、あらゆるモノを生んでいる

こんな感じですかネ (Harashima的な意訳なので鵜呑みにしないようにしてください)

まとめ

論語に比べて老子は何だかイマイチ理解できないかもしれませんが、それが想像力を刺激すると思うので、これからも読み飛ばさずガマンしてくださいネ

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